生産性のない時間を過ごしたという言葉
年が変わり、新年一発目である。
平成もついに終わりを迎え、次の元号は何か、そんな事をついぞ思う。
私は平成は後半において一気に革新的な進化を遂げたのではないかと思う。
アンドロイド、AI化が進み、自動運転技術から、一般起業家が持て囃される時代。
まさしく未来化が一気に進んだようではないかと。
神である天皇が生前退位、秋篠宮様は時代の意向を組んで無駄を省こうとするそんな時代。
是非神と「新時代」を掛けてシンと入れて貰いたいものである。
さて、そんな革新的な時代に逆行してるようだが私はふと思うことがあった。
人生もう半分きてしまっているではないかと。
私は今年で33だったか、それぐらいになるはずだが
今までの人生、別にそこまで楽しかった事など有るわけでもない。
辛い事のほうが当然多かったはずだ。
それでも過去をいい思い出として楽しかったような懐かしむ、それが人間という生き物で。
そんな人生もあと半分で終わってしまうのかと思うと、ふと寂しさがこみ上げてきたのである。
今の自分に満足しているか?
もう何も要らないか?
その答えはNOである。
人間は欲深い。
だからこそ進化をやめない。
これから歳を重ねて、更にもう少し行きたいという気持ちが少し分かった気がした。
お年寄が、胡散臭い上司が、声を揃えウォーキングと言う何の生産性もない事をしていようとも。
それはとても理解できると今なら思えた気がしたのだ。
この新時代で、いきり立つ若者が時代遅れを馬鹿にし、生産性生産性とそれこそなんの生産性もない言葉を吐く中
私は無性に生産性もないような事を趣味に没頭する人達が羨ましく見える。
自分はなにを成してきただろう。
ZOZO前澤社長のように目立てるような事など何もしていない。
ホリエモンのように先を見通す事もできない。
殆どの人がそうであり、それでも心の底で何かになりたいと願っている。
私はもがこうとしたし、足掻こうとして、様々副業をチャレンジしてみたがいまいち楽しさを感じれなかった。
残念な人間だ。
継続出来ない自分が憎たらしい。
でもまだ足掻いてみようと思う。タイトルにあるよう、どうせ高卒なのだ。
誰にも期待されちゃいない。
ならば思いっきり生産性の無い、誰にも見向きもされない事を生産してやろうではないか。